木之下城
犬山市立図書館の南側に愛宕神社が存在する。この愛宕神社が鎮座する周辺にかつて「木之下城」が存在した。現在は社殿の高まりに,わずかにその面影を見る事ができる。また図書館に面する県道と犬山市役所との間に小さな路地が残っており,この道を南にくねくねとたどっていくと,薬師寺の前にでる。さらに愛宕神社から西一本隔てた道は,ちょうど犬山城の虎口「木之下口」にあたり,そこから南側は猪ノ子町・木之下・薬師町とつながる道となる。
名栗町から木之下町にかけては道の軸線が犬山城内の東西南北地割りと異なっており,おそらく犬山城築造以前から存在した古い地割りをそのまま残していると思われる。これを手がかりに木之下城を復原すると,北は愛宕神社から南を南小学校付近までとし,東西は猪ノ子町から薬師町・専正寺町に至る道と県道の東側に残る路地と推定することもできる。愛宕神社を含めた城の中心地は南北150メートル・東西100メートルほどと推定されているが,さらに南北400メートル・東西250メートルの区画が存在した可能性が高い。しかし資料や発掘調査が行われてなく,その実態はよくわかっていない。また木之下城に伴うさまざまな施設や町屋等の配置も謎である。
ところで木之下城には興味深い伝承が伝わっている。城内には「金明水」という井戸があり,どんな厳しい日照りでも水がかれたことのない井戸として知られている。白龍さまをお祀りする金明水は,現在も愛宕神社境内に存在する。また神社の西南100メートルほどの宅地の中に「銀名水」と呼ばれる井戸が残されている。
なお,社殿がある高まりは高さ3メートルほど。木之下城廃城のあとこの場所に長泉寺(延命院)というお寺が存在し,その跡地に現在の愛宕神社が建てられた。
通説
木之下城について次のように描かれている。
15世紀後半に起こった応仁の乱により,美濃国の守護代であった斉藤妙椿(さいとうみょうちん)が斯波義敏(しばよしとし)の領地である尾張地域を攻略するため,鵜沼に進軍,これを察した義敏の臣であった織田広近(おだひろちか)が,その防御のため文明元年(1469)5月に城砦を現在の木之下地区に築いたのがはじまりとされている。織田広近は現在の大口町に所在する小口城を拠点とし,木之下城を支城として護りを固めた。以後は代々織田氏が居城し,六代目とされる織田信康(おだのぶやす)が天文6年(1537)に木之下城を廃城し,現在の犬山城付近に城を移した。なお織田信康は信長の父である織田信秀の弟にあたる。
木之下城城下町(案)推定